思索の庵 2 
 「ご案内」 

 「何故か、考えさせられ、そして、安堵し癒されるのだ・・。」そんなページを目指したい・・・。
編集・管理人: 本 田 哲 康(苦縁讃)
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 "自然"を考えるの章・・・”自然”について                10月26日   
人生は自分探しの旅。
それは
"旅"の途中で、フッと出会い
気づいてみれば・・ 新しい
自分に目覚めたとき・・
同時に、      
  一つの新しい
”自分の言葉”を発見する。

「そうだッ!」

覚醒
(かくせい)と共に
”己自身のことば”を体得する。
ある日、「アッ! そうなんだ〜!」
と、感動と共に気付くこともある。


そんなふうに
繰り返しながら・・・
今日も、また、新しい自分が独り言。
     ”自然”とは、実にありふれた何でもない言葉だ。日常口にしているが・・・。
 
 故に,つい見過ごしている。・・・・が、しかし、とても意味深い言葉だとおもう。
 ここで、
 先入観をすべて取り去って、改めて”自然”を観て、考え直して見たい。
  想えば・・・・・。
 人間は、”自然”を軽視し、”自然”に泣き、・・・・・、
 そのくせ”自然”の恩恵を受けながら、”自然”に対し畏敬の心を失った動物だ。
 やがて、いつのまにか「人間圏」を囲って、
 ついには、 ”不自然”に苦しむことになっている。
 
太古、 ヒトは、”自然”に対して、畏敬の気持ちを忘れることはなかった。

 実は、多くの宗教家が、多くの教典の中で述べているのは、”自然”の重要性だと思う。
          
 ヒトは、気づきを得て、言葉に表現する。
  言葉によって学び、相互に連携しながら生きている。
 だが、無口で悠久な”自然”が、我々の真の師なのだ・・・・と、つくづく思う。
 山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしつかいじょうぶつ) 
 ”自然”は、ヒトのこころの世界の、時の流れを遙かに越えた処で、
   確実に存在している。
 ここでは、不易(ふえき)な真実を物語っている。 ・・・と、しみじみと感じる。
 言葉や文字から学ぶことは、
  結局は、この”自然”が教えてくれた『真実』に他ならないのだと想う。

 ”自然とは ???” を、改めて考えてみたい。 
・・・・・・・ 苦縁讃
 
 1 ・・ <自然>とは・・ 
「自然」は、
”自(おの)ずから然(しから)しむ”、
 とも読める ・・・・ !?
(注)
”成る可くして、成るようになる。”
・・・・・。
・・・・・と言うことか?!
私には これが
すぐには納得しにくかった。

「成るようになる」等と、
『そんな良い加減な!』と、
思うからだ。
しかし、考えてみれば、・・
そうだった。

事実は 自然界は 
「命懸けならば・・」と言う,
唯一の条件の下
(もと)で、
すべての動・植物たちは、
とてつもなく
悠久の静けさの中で、
成るべくして
成るようになっている

例えば、
インスタントラーメンと
同じ感触の
あの、醜いミミズ。

ミミズには眼もなく指もない。
しかし、
彼らは、自由自在に
土中を掘って歩き回る。
うっかり手をさしのべたら
 つぶれてしまう。
「自然」に任せておくのがよい。

だが、
我々が土を掘ったら・・・、
一時間もしない内に、
指は血だらけになる
爪があっても・・・である。

当然と思えば、
当たり前のことだが、
しかし、
「自然に共感」の眼で観ると、
これは、正に奇跡である。

『自然』は、
ミラクル
(Miraculous)がいっぱいだ!
”成る可くして、   
成るようになっている。”
また、
雑草を引き抜いて見れば、
根の先端は
瑞々しく輝いていて、
可憐で、美しい!!
指でそっと触れると、
ポロッと簡単に折れる
そんな
驚くほどささやかな  
細い先端である。
草の根は、・・・・・・・・、土に
刺さっている。
私が釘を手に持って、
これをグランドに刺すことは、
・・・・・・・・、
体重を掛けて行えば、
不可能ではない。
だが、掛ける体重もない
小さな雑草の根っこでも、
土中に刺さっている
 ではないか?!

当然と思えば、
それは、当たり前のことだ。
しかし、正に奇跡的だ。
ミミズも、雑草も
「お前も命懸けになれば、
できるさ!」と、
我々に訴える。
感動しないわけには
いかないではないか?!

人間のように、ジタバタしない。

ヒトは、自然の一員でありながら、
この
「命懸け」
死ぬほどに”嫌”なのだ。


それを発見して・・・。一つ学んだ。



  苦縁讃
 ('3年5月地方新聞に投稿・掲載の一部) 
 驚くほどささやかな細い先端だ!

芽と根だ。

”純”で”無垢”。

汚れがない。

これが
不思議な力を
備えているのだった。

あり得ないほどに
・・・だ。

だから

不思議なのだ。

”自然”。

私も ”自然”。

私の中にも

これがある。


私の中にある 芽と根。



これを       

見直してみると 驚く。  



不思議な力を

秘めている。

純で 無垢な・・

輝かしく 汚れのない

芽と根。

私の中に・・・ 居た。   

仏様が・・・    

確かに・・・・ 

鎮座していた。

”私”の存在の

意味を 

久遠の 沈黙の中から
示唆していた。

それが・・・

瞬時、確かに見えた。

如来
(にょらい)!?

・・・。

しかし、

つかの間の 瞬時だった。

いつも、見えるわけではない。

如去
(にょこ)だった ?!




  (注)・・ 「末燈抄」親鸞聖人 に、
 「自然
(じねん)というは、自はおのずからという、行者(ぎょうじゃ)のはからいにあらず。然というはしからしむという言葉なり。しからしむるというは行者のはからいにあらず。如来のちかい(誓)にてあるがゆえに法爾(ほうに)という。」 とある。

・・苦縁讃
 ・・ <自然>とは・・ 
 今我々が自然というのは、人工を加えない、そのままの姿の物というふうに思うわけでありますけれども、例えば[老子]などに出てきます「自然」という言葉の使い方をみますと、ちょっとそういうものと意味が違いますんですね。
 いくらか面倒な言葉でありますけれども、  希言は自然なり 
第二十三章
 という言葉が出て参ります。 この「希言」というのは、また、
  視れども見えざるものを名づけて夷といひ、聴けども聞こえざるものを名づけて希といふ 
第十四章
という別の文章がございますので、この「希言」というのは凡人の耳には聞くことのできない言葉という意味であろうと思うのですね。
 そういうような言葉が、何故自然であるのかということですね。どうもこの自然という言葉の使いざまには、我々が普通に使っておるところの自然という用法とは、少し異なるところがある。 (略)
 東洋におきましては、この自然と人間とが分離するということはほとんどなかった。人間も自然の一部として、つまり一元的な世界として、自然の中にあったというようなことから、この自然というのは、物の存在の本質のままであるというような意味あいを、持っておったんではないかというように、思うんであります。

    ・・・・
 From 「文字講座 T」 第五話 自然と神話  白川 静 平凡社より 
 2 ・・ 芝生が輝いていた ! 
早朝、       
 芝生の庭に立った。
  輝かしい朝日が    
 芝生の上に
  私の陰を映していた。

 芝生の上の
  私の陰の そのまわりが
 きらきらと 輝いていた
 私は    
 腰をおろして  
   芝生を凝視した。
  ・・・・・。 まるで、
 両手を一杯に広げるように
  輝いて
 皆
(み〜ん)
  太陽に向かって
 合唱しているかのように
  可愛く見えた。
   とても可愛かった。

 朝露に濡
(ぬ)れて、
 小さな葉先に
  (しずく)となって輝いて・・・・・・・
 それらが リンリンと

   
合唱する声がした

 輝かしい    
 朝日を背にして
 静寂
(しじま)に佇(たたず)私の
 眼を釘付けにした

 よ〜く見ればみんな、    
 芝生は同じ背の高さ!
 そのどれにも太陽の
   輝きと暖かさは
    射し込んでいた。

 すべての芝生が、
  両手を一杯広げて
   太陽に向かって
 唄うかのようだった!
   そう 思えた

 『あまねく、すべてに温かく    
 光は 照らしていた!


  芝生たちは 合唱していた!

  これは、言葉にならない感動であった

                苦縁讃
 
 




             





     

 見方では芝生のこの姿は、人々が両手を挙げて、「せめて私だけには・・!幸せを・・。」と、叫ぶ、”貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)”の阿鼻叫喚(あびきょうかん)の図を連想させるような時もある。・・・・が?! 
「こころの時代 ー 待てない時代にどう育てるか ー」 基督教独立学園高等学校校長 安積力也 氏より  
 あったかい
 光はあったかい
 太陽はあったかい
 人はあったかい
 手を広げ 太陽を背中に浴びながら のびをした
 私の背中は 光を受け取る
 あったかい
 わたしの 頬
(ほほ)を伝う涙は
   あったかかった
 バラバラだった わたしのこころとからだは
   また 少しもとに戻る
 あったかい しあわせだ
   胸いっぱいに 空気を吸う
 すべての空気を
   この世界にはき出した
 生きている
   私はここで生きている
     生かされている
 わたしは
   この世界で生かされている
     それだけで 十分だった
       あったかい
 光はあったかい
 太陽はあったかい
 人は
   みんな あったかい
 わたしも
  あったかい人になれるだろうか
 

                         夕拝での1年生女生徒の告白
 3 柊(ひいらぎ)は,私に無言で告げた。 
私の村に
 柊の古木が聳(そび)えている。
毎年一度、
村の祭礼にお供え物を持って、
村人が          
 その柊の古木の根元にある、
 「山の神」を詣でる
  習わしになっている。
村人の
  毎年一度の恒例行事だ。

 私は、柊に教えられた。
  今も忘れられない。

 ・・・・・・・。
 その柊は
 「山の神」のそばに
  聳
(そび)えている

その柊を見上げて
 ”ハッ!”とした。
 どの枝をみても、
  その枝のどの葉も・・・・、
  円(まる)いではないか!!
古木の”柊”の葉は、
 トゲが無く、
  皆、丸かった。
『おい!
 お前もそろそろ円(まる)くなれよ!』
 ・・・・・・、と、
  訴えかけているようだ。
そう思えてビックリした。
思わず、・・・・・・、  
 私は自分自身の
  日常を振り返った。
あれは、
 何年前のことであったか??
 ・・・・・・。
 私は、ヒイラギに教えられた。
 ヒイラギに、           
 私は優しく諭(さと)された。
 
  
この大きな柊は、豊田市の銘木の一つに指定されている。
                         苦縁讃
 








 
 
 ☆ 「二本の木」  小沢 爽 の日記  「オリーヴの幻想」
                        
2006年5月23日 より
NHKでドキュメンタリー番組を作り14年前に退職。平成19年12月に胃がんで他界(71歳)。
妻・千緒さんはその七ヶ月前の同じ年の5月に肺がんでなくなった(65歳)。 2010年1月
 私たちは、土佐清水でもよく散歩した。
 そうした折に妻はひとつのギリシャ神話を語った。
「ギリシャの神様ゼウスが        
貧しい身なりで老夫婦の家に訪れるノ
老夫婦は気持ちよく
その貧しい身なりの人をもてなしてネ。

ゼウスはお礼に          
願いがあれば叶えてあげようって言うノ・・。
すると、老夫婦はこう言うノ・・。
『私たちは老いました。
もう、あまり望みはありません。
しかし、
どちらかが一人残されることには
耐え難い思いがします。
できることなら、
手をたずさえてあの世に行ければ、
こんなうれしいことはありません。』
やがて        
ゼウスが去ってから、
老夫婦がふと気がつくとネ
並んで座っている二人の足首から、
根が生えてゆくノ・・。

あしは,            
下から次第に、木に変わっていって
やがて腰へ、
そしておなかへと木に変わってゆく。
胸も木肌に変わってゆき
最後はそうやって
見つめ合っている二人の目も
木の皮に覆われていってネ。
いつしかそこには
二本の木が立ってたのネ。」 ・・・・・


 ☆ 「ふたごのき」
  詩人:谷川俊太郎・覚 和歌子
          「ふたごのき」
   北の国の とある丘の上に
   ふたごのきが 立っている
   ちょっと大きい方が アパ
   小さい方が アピだ
   ふたりが どんな話をしているか聞いてみようか

  アパ 「見える? アピ
      また、あのお爺さんがきてるわ」

  アピ 「こんな吹雪なのに?」
  アパ 「よっぽど私たちが好きなのね」

  アピ 「どおしてかなぁ」
  アパ 「わたしたちが  どこへも行かずに
           いつもここにいるから・・」

  アピ 「アパ 君の花が咲いたよ」
  アパ  「あなたの花も咲いているわ アピ」
  アピ 「君の花 とてもきれいだ」
  アパ  「あなたの花も とてもきれい」
  アピ 「自分の花は見えないけど
     君の花が見えるから いいな」

  アピ 「ぼくたちは いつまでここにいるの」
  アパ 「さぁ?」

  アピ 「どこかへ 行きたくない? アパ」
  アパ  「いいえ。 
      だって、ここに立っているだけで
      いろんなものが 見えるもの
          いろんな音が 聞けるもの」
  アピ 「いろんな臭いも嗅げるね
    あのお爺さん 近頃
(ちかごろ)来ないね?!」
  アパ 「あのお爺さんは死んだわ」

 アピ 「どうして知ってるの?」
 アパ 「お墓に埋められるのが見えたの
      楽しそうに微笑
(ほほえ)んでいたわ」

 アピ 「もうお爺さんは いつまでも
        僕たちと 一緒だね」

 アピ 「ねぇ アパ
     僕たちは いつ死ぬのかしら?」
 アパ 「風に聞いてごらん」
アピ 「風は知っているの?」
 アパ 「空に聞いてごらん  風が知っているかどうか。」

 アピ「空は知ってるの?」
 アパ  「星に聞いてごらん 空が知っているかどうか」

 「春になれば 僕たちの枝に 小鳥が巣を作る
  僕たちの周りで 狐の子が遊ぶ
    春になると 僕たちの下で
恋人たちは 愛し合う
       僕たちの 葉陰で 旅人は雨宿りする」 

 

 自然の一員である”人間”。これが、いかにも 
不自然の状況の中に自らを置き、苦しむ。
悲しむ・・・。また、恨みをも持つ。
  人生は自分探しの旅。
  だが、静かに”自分”を振り返ることは、決して簡単ではない。
  とかく付和雷同して、己をじっくり見定めようとする事のないまま、
 年齢を重ねていく。
  『傲慢
ごうまん』・『驕慢きょうまん』なる言葉を、知識として理解できても、
 自分の中にあるそれには気づかないものだ。
  とかく、人間は・・・、そんなものだ!?
  『謙虚』と言う言葉も同じである。 
  この「思索の庵」は、そんな人間の本性を俯瞰
(ふかん)してみようと・・・、
 ささやかな試みをしてみた。     ・・・ 苦縁讃


       

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