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貴方は人目・番目のお客様です。ようこそ! |
人生は自分探しの旅。 それは "旅"の途中で、フッと出会い 気づいてみれば・・ 新しい 自分に目覚めたとき・・ 同時に、 一つの新しい ”自分の言葉”を発見する。 「そうだッ!」 覚醒(かくせい)と共に ”己自身のことば”を体得する。 ある日、「アッ! そうなんだ〜!」 と、感動と共に気付くこともある。 |
そんなふうに 繰り返しながら・・・ 今日も、また、新しい自分が独り言。 |
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1 ・・ <自然>とは・・ | |||||||||
「自然」は、 ”自(おの)ずから然(しから)しむ”、 とも読める ・・・・ !? (注) ”成る可くして、成るようになる。” ・・・・・。 ・・・・・と言うことか?! 私には これが すぐには納得しにくかった。 「成るようになる」等と、 『そんな良い加減な!』と、 思うからだ。 しかし、考えてみれば、・・ そうだった。 事実は 自然界は 「命懸けならば・・」と言う, 唯一の条件の下(もと)で、 すべての動・植物たちは、 とてつもなく 悠久の静けさの中で、 成るべくして 成るようになっている 例えば、 インスタントラーメンと 同じ感触の あの、醜いミミズ。 ミミズには眼もなく指もない。 しかし、 彼らは、自由自在に 土中を掘って歩き回る。 うっかり手をさしのべたら つぶれてしまう。 「自然」に任せておくのがよい。 だが、 我々が土を掘ったら・・・、 一時間もしない内に、 指は血だらけになる 爪があっても・・・である。 当然と思えば、 当たり前のことだが、 しかし、 「自然に共感」の眼で観ると、 これは、正に奇跡である。 『自然』は、 ミラクル(Miraculous)がいっぱいだ! ”成る可くして、 成るようになっている。” また、 雑草を引き抜いて見れば、 根の先端は 瑞々しく輝いていて、 可憐で、美しい!! 指でそっと触れると、 ポロッと簡単に折れる そんな 驚くほどささやかな 細い先端である。 草の根は、・・・・・・・・、土に 刺さっている。 私が釘を手に持って、 これをグランドに刺すことは、 ・・・・・・・・、 体重を掛けて行えば、 不可能ではない。 だが、掛ける体重もない 小さな雑草の根っこでも、 土中に刺さっている ではないか?! 当然と思えば、 それは、当たり前のことだ。 しかし、正に奇跡的だ。 ミミズも、雑草も 「お前も命懸けになれば、 できるさ!」と、 我々に訴える。 感動しないわけには いかないではないか?! 人間のように、ジタバタしない。 ヒトは、自然の一員でありながら、 この「命懸け」が 死ぬほどに”嫌”なのだ。 それを発見して・・・。一つ学んだ。 苦縁讃 ('3年5月地方新聞に投稿・掲載の一部) |
驚くほどささやかな細い先端だ! 芽と根だ。 ”純”で”無垢”。 汚れがない。 これが 不思議な力を 備えているのだった。 あり得ないほどに ・・・だ。 だから 不思議なのだ。 ”自然”。 私も ”自然”。 私の中にも これがある。 私の中にある 芽と根。 これを 見直してみると 驚く。 不思議な力を 秘めている。 純で 無垢な・・ 輝かしく 汚れのない 芽と根。 私の中に・・・ 居た。 仏様が・・・ 確かに・・・・ 鎮座していた。 ”私”の存在の 意味を 久遠の 沈黙の中から 示唆していた。 それが・・・ 瞬時、確かに見えた。 如来(にょらい)!? ・・・。 しかし、 つかの間の 瞬時だった。 いつも、見えるわけではない。 如去(にょこ)だった ?!
・・苦縁讃 |
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・・ <自然>とは・・ | |||||||||
今我々が自然というのは、人工を加えない、そのままの姿の物というふうに思うわけでありますけれども、例えば[老子]などに出てきます「自然」という言葉の使い方をみますと、ちょっとそういうものと意味が違いますんですね。 いくらか面倒な言葉でありますけれども、 希言は自然なり 第二十三章 という言葉が出て参ります。 この「希言」というのは、また、 視れども見えざるものを名づけて夷といひ、聴けども聞こえざるものを名づけて希といふ 第十四章 という別の文章がございますので、この「希言」というのは凡人の耳には聞くことのできない言葉という意味であろうと思うのですね。 そういうような言葉が、何故自然であるのかということですね。どうもこの自然という言葉の使いざまには、我々が普通に使っておるところの自然という用法とは、少し異なるところがある。 (略) 東洋におきましては、この自然と人間とが分離するということはほとんどなかった。人間も自然の一部として、つまり一元的な世界として、自然の中にあったというようなことから、この自然というのは、物の存在の本質のままであるというような意味あいを、持っておったんではないかというように、思うんであります。 ・・・・ From 「文字講座 T」 第五話 自然と神話 白川 静 平凡社より |
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2 ・・ 芝生が輝いていた ! | |||||||||
早朝、 芝生の庭に立った。 輝かしい朝日が 芝生の上に 私の陰を映していた。 芝生の上の 私の陰の そのまわりが きらきらと 輝いていた 私は 腰をおろして 芝生を凝視した。 ・・・・・。 まるで、 両手を一杯に広げるように 輝いて 皆(み〜ん)な 太陽に向かって 合唱しているかのように 可愛く見えた。 とても可愛かった。 朝露に濡(ぬ)れて、 小さな葉先に 雫(しずく)となって輝いて・・・・・・・ それらが リンリンと 合唱する声がした 輝かしい 朝日を背にして 静寂(しじま)に佇(たたず)む私の 眼を釘付けにした よ〜く見ればみんな、 芝生は同じ背の高さ! そのどれにも太陽の 輝きと暖かさは 射し込んでいた。 すべての芝生が、 両手を一杯広げて 太陽に向かって 唄うかのようだった! そう 思えた 『あまねく、すべてに温かく 光は 照らしていた! 芝生たちは 合唱していた! これは、言葉にならない感動であった 苦縁讃 |
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見方では芝生のこの姿は、人々が両手を挙げて、「せめて私だけには・・!幸せを・・。」と、叫ぶ、”貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)”の阿鼻叫喚(あびきょうかん)の図を連想させるような時もある。・・・・が?! | |||||||||
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3 柊(ひいらぎ)は,私に無言で告げた。 | |||||||||
私の村に 柊の古木が聳(そび)えている。 毎年一度、 村の祭礼にお供え物を持って、 村人が その柊の古木の根元にある、 「山の神」を詣でる 習わしになっている。 村人の 毎年一度の恒例行事だ。 私は、柊に教えられた。 今も忘れられない。 ・・・・・・・。 その柊は 「山の神」のそばに 聳(そび)えている。 その柊を見上げて ”ハッ!”とした。 どの枝をみても、 その枝のどの葉も・・・・、 円(まる)いではないか!! 古木の”柊”の葉は、 トゲが無く、 皆、丸かった。 『おい! お前もそろそろ円(まる)くなれよ!』 ・・・・・・、と、 訴えかけているようだ。 そう思えてビックリした。 思わず、・・・・・・、 私は自分自身の 日常を振り返った。 あれは、 何年前のことであったか?? ・・・・・・。 私は、ヒイラギに教えられた。 ヒイラギに、 私は優しく諭(さと)された。 この大きな柊は、豊田市の銘木の一つに指定されている。 苦縁讃 |
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☆ 「二本の木」 小沢 爽 の日記 「オリーヴの幻想」 2006年5月23日 より |
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NHKでドキュメンタリー番組を作り14年前に退職。平成19年12月に胃がんで他界(71歳)。 妻・千緒さんはその七ヶ月前の同じ年の5月に肺がんでなくなった(65歳)。 2010年1月 |
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☆ 「ふたごのき」 詩人:谷川俊太郎・覚 和歌子 |
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自然の一員である”人間”。これが、いかにも 不自然の状況の中に自らを置き、苦しむ。 悲しむ・・・。また、恨みをも持つ。 |
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